第4回 甘楽・雄川堰編

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群馬県の西南部にある甘楽町は織田家ゆかりの地として知られ、
江戸時代の面影を今もなお残している歴史と風情を偲ばせる町です。
この城下町を南北に流れる『雄川堰(おがわぜき)』は、
古くから近隣の生活には欠かせないものでした。
そこに暮らす人々に守り伝えられてきた「雄川堰」。
その先人たちが残した知恵を間近で体感しようと、
私たちスタッフは甘楽に向けて出発しました。
また、近隣には世界遺産を目指す『富岡製糸場』があります。
身近に時間ある群馬の歴史を体感しようと、ちょっと足をのばしてみました。

雄川堰 罫線 日本名水百選 雄川堰

群馬県の西南に位置する甘楽町。そこに標高1,370mの稲含山(いなふくみやま)があります。この稲含山から流れる「雄川」の中流から取水して作られた用水路が、甘楽町小幡地区を流れる『雄川堰』です。

雄川堰は、織田信長の次男、信雄(のぶかつ)が大夏の陣の功績により、元和元年(1615年)に大和国松山(奈良県)3万石と、上州小幡2万石を家督相続した後、織田宗家として小幡に城下町を整備したときに構築された由緒ある用水路。網目のように用水路を張り巡らせ、地域住民の生活用水や農業用水として利用されてきました。

今でも石積みや洗い場などが残っており、当時を偲ぶことができます。また、水質、水量ともに当時と変わらず、歴史的、景観的な要素から「日本名水百選」にも選定されています。

周辺には雄川堰の清らかな流れに沿って城下町小幡の古い家並みや桜並木が続き、春にもなると多くの人を引きつけ、小幡を象徴する風景の一つとなっています。

桜の花が咲き乱れる4月に訪れたスタッフも、日頃の慌しさから開放され、時間を忘れて雄川堰沿いを散策。すると、雄川堰でグルグルまわる物体を発見!

「一体あれは何?」

雄川堰の近くでこの近所に住む柳沢おじいちゃんに出会ったスタッフ。「すみませ~ん。お話し伺ってもいいですか?」と、先ほどの川の中の物体について質問開始!

おじいちゃんの話によると、ひと昔前まで雄川堰には「洗い場」と呼ばれる水場が1軒に1ヵ所あったそうです。そこで活躍したのがこの不思議な水車のような物体。これは「芋車」と呼ばれ、その中に野菜を入れ自動式で洗っていたとか。先人の知恵にスタッフ一同、納得の様子。地元の方とのふれあいに心があたたまる明く明日スタッフ。元気な柳沢おじいちゃんからパワーをいただきました。

小田家城下町のシンボル 小田家城下町

陣屋町としての最も盛大な遺構は、中心街からやや南西寄りに残る中小路界隈。道幅は14mもあり、小路とは名ばかりの立派な街路沿には、数少ない貴重な武家屋敷の面影が残されています。

その中でも特異なのは、いかにも武家屋敷らしい入口、山田家の「食い違い郭」。鉤形(クランク状)に曲がって石垣が積み上げられ、奥が見えないようになっています。外敵を防ぐためとも、下級武士が上級武士に出会うのを避けるためとも言われています。同じ武士同士、階級が違うためにすれ違うのも大変だったのでしょう。

石垣の前で写真をとったスタッフですが、思ったより低い壁にびっくり。昔の人の身長はどのくらいだったんでしょうね。

そして、もう一つのシンボル的存在である「楽山園」。
織田信雄によって小幡陣屋として造られた庭園で、『知者ハ水ヲ楽シミ、仁者ハ山ヲ楽シム』という論語から名付けられと言われています。

江戸時代の池泉回遊式庭園で、京都の桂離宮と同じ特色を有しています。当時の大名の趣向をよく表しており、国指定名勝庭園に指定され、県内で唯一残された大名庭園として貴重な遺跡。今では誰もがゆったりとした気分で落ち着いて楽しめる庭として愛されています。

織田信雄がこの「雄川堰」を整備した頃の栄華の時代は、今では町並みでしか伺い知ることができません。しかし、雄川が何世代にも渡って守り伝えられ、この地域の生活に無くてはならないものであったこと、そして人々の心に安らぎと潤いをもたらしてくれていたことを実感。そして、自らも雄川はもちろん旧跡や町並み、ここに住む方々のパワーに触れ、心身ともに「潤い」満タンのスタッフたちでした。

日本の発展に大きく貢献した富岡製糸場 富岡製糸場

雄川堰より車で約10分。富岡製糸場にやってきました。「日本で最初の富岡製糸」「繭と生糸は日本一」と群馬県民なら知らない人はいない"上毛カルタ"にも歌われて、私たち群馬県人にとっては誇り高き場所でもあります。

富岡製糸場は、ヨーロッパの技術と日本独自の工法が融合してできた世界最大規模の建物で、日本の近代国家・産業革命の礎として、日本で最初に創られた工場制機械工場です。当時、最大の輸出品だった生糸の品質を維持、向上させるためフランス人技師の指導のもとに西洋式機械製糸の導入をはかるモデル向上でした。

そもそも、なぜ富岡のに作られたのか?その理由は、1.養蚕の中心地で優良な繭が供給可能。2.製糸に必要な良質の水が確保できる。3.広い敷地が比較的用意に入手可能だった。

 

明治政府の依頼で長野、群馬、埼玉の各地区を巡察したフランス人技師ポール・ブリュナが「最も宜しき場所」と決定したどうです。

さて、さっそく場内に入ってみると、正面入り口のキーストーン(アーチの頂上部にある建築要素)には、「明治5年」の刻字が入っています。当時のまま残っている文字を見ていたら、時間がタイムスリップした様でした。

そして、私たちの目を引いたものは、大きなレンガ造りの建物、「東繭倉庫」です。東繭倉庫は現代建築の4階建て位の高さがありますが、実際の中は2階建てです。建物の構造は、木材の骨組みの間にレンガを積み並べる工法「木骨レンガ造」で建てられました。

富岡製糸場のレンガはフランドル積み(レンガの長手と小口を交互に積む方式)という方法で積まれています。時代の変化とともに現在はフランドル積みからイギリス積み(長手の段と小口の段を交互に積む方式)が主流となっています。レンガの積み方にも色々あることを初めて知りました。

日本の産業を世界に知らせるとともに、日本文化・経済発展に大きく貢献してきと富岡製糸場。明治五年に操業が開始され、昭和62年に操業停止となるまで長きに渡り活躍しましたが、115年間に渡って生糸を生産してきた歴史に幕を閉じました。

富岡製糸場で活躍する女性たち 富岡製糸場で活躍する女性たち

富岡製糸場で働く女性たちは女工ではなく「工女」と呼ばれていました。「製糸場」と聞いて『あゝ野麦峠』を連想しがちだが、これは大きな勘違い。ここに集まった女性は、単なる労働者ではなく、「伝習工女」として機器製糸の指導者となり地元の製糸業発展に貢献しました。明治26年(1893年)の民営化後もその誇りは受け継がれ、富岡製糸場では「工女」と呼ばれ続けたといいます。

しかし、製糸場で働く工女の募集は難航したとか。それは、人々がフランス人の飲むワインを血と思い込み「富岡へ行ったら西洋人に生き血を吸われる」という噂が流れたからだそうです。開国間もない日本人にとっては想像もつかない程の恐怖感だったのでしょうね。

そんな誤解を解くため創立責任者の尾高惇忠は14歳の娘「勇」を工女第1号として入場させました。その後、信州松代の士族の娘、横田(和田)英をはじめ、各地の士族の娘が率先して入場し、日本全国から約550人の工女が集まりました。

入場後の工女は、徐々に難度の高い仕事を学んでいき、スキルアップしていく喜びを感じていたそうです。和田英は「業は進みますだけで楽で楽しくなりますから、少しも退屈しません」と当時の記録に残しています。そして「ふだん日なたにでず毎日に湯気に蒸されていますから、髪や肌の艶が実に美しいこと。別品さんがたくさんおられました」という、華やかな職場であったことを想像してしまいます。

過酷な労働を強いられ、辛い日々を送っていたのかと思っていましたが、そうではなく、しっかりとした環境の中で、今で言うハイテク技術を習得し、地元の絹産業発展に貢献したとともに日本近代化産業発展に大きな力を尽くしたことを知りました。>そんな工女さん達の活躍に、私たちスタッフも感謝の気持ちでいっぱいになりました。

甘楽の名所・名跡 甘楽の名所・名跡 取材を終えて 取材スタッフ

満開の桜並木を大名気分で散策、お殿様になった気分で楽山園をまわり、工女になった気分で富岡製糸場を見学。歴史と浪漫を感じる取材となりました。そして、今回の取材にあたって、地元の柳澤さんには、農作業中にもかかわらず手を休め、当時の様子を詳しく話していただき、本当にありがとうございました。もっともっと色いろなお話を伺いたかったです。また来年も桜の季節に訪れてみたいと思うスタッフ一同でした。

2010年4月9日取材 
(取材スタッフ 山口、飯野、神部) 

投稿者 アクアス総研 : 2010年10月 1日 10:11